あれからどう時間が流れたのか・・・

私には全く分からない。



気が付くと私は自分のベッドの中で、いつもと同じ、代わり映えのない朝を迎えていて、

決められたようにアカデミーに向かい、ただ機械的に黙々と仕事をこなして、

そして押し流されるように夕暮れ時を向かえ、また黙って部屋へ帰る。



毎日がその繰り返し。

自分でも不思議だった。どうして、私は今当たり前のように仕事をしているんだろう?

あんな事のあったアカデミーに毎日のように通って、何事も無かったかのように振舞って、平気な顔をしてみんなに会って。



あぁ、それは・・・。

自分の感情を完全にシャットアウトして、余計な事は何も考えないようにしているから。

ううん・・・。考える事ができなくなってしまったから。



もう、傷つきたくない・・・。

自分で考える事を止めてしまえば、何かに悲しむ事も、何かに怒る事もしなくて済む。

いろいろ思い出して、また傷付いて、ズタズタになる事はない・・・。












自分では、今までと全く変わらない振りをしているのに、周りの人がやけに気を遣ってくれる。

そんな事しなくても良いのにな。

だって、私は元気だよ?

何ともないよ?

悲しんでなんか、落ち込んでなんか、ないのに。

全然変わってないのに・・・。

やめてよ!

そんな眼で見られたら、すっごく惨めになっちゃうじゃない・・・!



腫れ物を触るかのような気の遣い方に、イライラがどんどん募って、言いようのない憤りが溢れ出しそうになってしまう。

今まで能面のように無表情だったのに、突然感情が爆発して、それを自分で全くコントロールできなくなって、

周りの人に八つ当たりして、そしてどん底まで落ち込んで・・・。






私って、こんな弱い人間だったのかな・・・?

たかだか、好きな人に嫌われたくらいで、死にそうなほど落ち込んで。

今までだって、何度も失恋してきたじゃない。そう、それと同じ。またすぐに別の好きな人が現れる。

だから・・・、だから・・・。でも・・・。



どうしてこんなに辛いんだろう・・・。

ふとした瞬間に、あの人の気配や体温がまざまざと蘇って、どうしようもなく心が騒ぐ。

不意に、耳の奥であの人の声が優しく語り掛けてきて、どうしようもなく心が締め付けられる。

あまりにもあの人が私の中に溶け込んでいて、思い出したくなんかないのに、何も思い出したくなんかないのに、

どんどん、どんどん、私の中からあの人が溢れ出してくる――



そのたびに わたしは こころのいたみに きがくるいそうに なる――









あれからちょくちょく、いのが私のところに遊びに来るようになった。

アカデミーでも自宅でも、せっせと時間を見つけては、「元気ぃー?」と、顔を見せてくれる。

「すんごく暇持て余しちゃってるから、ちょっとデコリンをからかいにねぇー・・・」って笑っているけど、

本当は私の事、凄く心配してくれているんだよね。



「うん・・・。元気だよー」



無理矢理、上辺だけの笑顔を作って明るく答えるたびに、いのは僅かに顔を顰める。

まるで、私の笑顔が気に入らないみたいに。



「・・・無理することなんか、ないんだよ・・・」

「無理なんかしてないよ」



さっき以上に明るく答えてやった。

無理しなきゃ・・・、やっていけない時もあるんだよ、いの。

心の中にぽっかりと空いてしまった大きな穴は、日を追うごとに塞がるどころか反対にポロポロと縁が崩れ落ちて、

言いようもない虚ろな洞と化してしまった。

なんにもない 真っ黒な 空洞。

その中を、ビュービューと風が吹き抜ける。陽も当たらない荒廃した土から、新しい息吹が芽生える事なんてある訳がない。

もう二度と心の底から笑う事なんてできないよ。



もう、昔の私なんて何処にもいやしないんだ――









「ねぇ、サクラ・・・。あんた本当はどうしたいの?」



ある日、いのがいつになく真剣な眼差しで私に尋ねてきた。

射るように、私の目を、そして心の中を容赦なく覗き込んでくる。



「どうって・・・」



強すぎる眼差しに、ふと視線を外してしまった。

とても真っ直ぐには見返せない。

もし、このまま心の中を覗かれたりしたら、ギリギリ保っている心の均衡がガラガラと脆く崩れ落ちしまうに違いない。

今の私には、余計な荒波は必要ないのよ。



二重三重にフィルターを掛け、心の周りに防護壁を建てた。

何も考えないように・・・。余計な事は思わないように・・・。



「そんなもの・・・ないよ・・・」



無機質な笑顔で、静かに答える。

どうか心が波立ちませんように・・・。どうか想いが溢れ出しませんように・・・。

何かしたいなんて・・・思ってはいけない。

何かを願ったら・・・、ちょっとでも望んだら・・・、きっと私は崩壊してしまう。



「どうしたいかなんて・・・全然ない・・・」

「本当に・・・? 本当にこのままでいいの? この先ずっとそんな調子で自分の心に嘘吐き通すの?」

「嘘なんて・・・」

「絶対絶対、後悔するよ。どうしてあの時素直にならなかったんだろうって、絶対絶対、後悔するよ」

「・・・・・・」

「サクラ・・・」

「・・・じゃあ、どうすればいいのよ・・・! あんなにはっきり嫌われちゃって、一体どうすればいいって言うのよぉ!

 話してもくれない、逢ってもくれない・・・。見事なまでに避けられちゃって、それで私にどうしろって言うの!?」

「・・・・・・」

「答えてよ・・・。答えなさいよ!」

「嫌われてはないと、思うよ・・・。傍から見れば、あんた達って十分お互いに好き合ってるように見える」

「そんな訳・・・」



ない。

お互い好き合ってて、どうしてこんな風に仲が拗れるって言うの・・・。

本当に好き合ってるなら、あんな一方的に避けられたりしないわ。

ちゃんと私の話を聞いてくれるはずでしょう。

『独りにしてくれ・・・』って、私の存在が邪魔で鬱陶しいってことでしょう。

だから、独りになりたいんでしょう。

私なんか・・・、私なんか・・・。

もう、カカシ先生に必要ないってことなんでしょう・・・。



せっかく忘れてたのに。

あの時の絶望感。

世界が一瞬にして崩れ去っていく空虚感。

忘れてたのに・・・ 忘れてたのに・・・

どうして思い出させるのよ。

余計な事しないでよ。いの。

心が・・・、身体が・・・、全ての細胞が悲鳴を上げて、粉々に砕かれていく・・・。

もう、嫌だ。

こんな思いは、真っ平だ――



「・・・っく・・・う・・・うっ・・・」



また涙が溢れ出して止まらなくなった。

私の中で、何回も繰り返されるあのシーン。

私の時間が止まってしまったあの瞬間。



先生・・・ カカシ先生・・・

どうして・・・ どうして・・・



ちゃんと教えてよ、その訳。どうして逢えないのか、ちゃんと説明してよ。

そうでないと、私いつまでたってもここから動けない。



ふわり・・・

また、カカシ先生の気配が・・・、匂いが・・・、感触が・・・、私の周りにまざまざと蘇る。

笑顔が・・・、視線が・・・、囁きが・・・、私の心を掻き乱す。

思い出したくないのに・・・、もう忘れ去りたいのに・・・、それでもカカシ先生は私の全てを縛り付けて離さない。

一番残酷な方法で、私の心の奥底に深く深く染み付いて離れない・・・。



「逢いたい・・・よ・・・。カカシ先生に・・・逢いたい・・・よぉ・・・」



また昔みたいに先生の隣で笑っていたい。

じゃれ合って笑い合ってふざけ合って・・・、ただそれだけでいいから。

先生のそばにいたいの。

お願いだから、私を突き放さないで。

私の存在を認めて。そして、横に立つことをどうか許して。

こんなにも貴方のことが恋しい。

こんなにも貴方のことを想っている。

こんなにも・・・ こんなにも・・・

カカシ先生に逢いたい 逢いたい 逢いたい

本当は 先生に 逢いたくて たまらない・・・ 







「じゃ、逢っておいでよ」

「・・・え・・・?」

「逢って・・・、今度の任務の事、ちゃんと説明した方がいいかも・・・」

「今度の任務?」





ほんの一瞬、いのが意味深な視線を私に送った。

ザワ・・・

なんだろう・・・。身体中が総毛立つ・・・。

無意識のうちに、固く両手を握り締めて身構えてしまった。





「ねぇ、例のドレス・・・、まだ手元にあるの?」

「ううん・・・。もう返した・・・」

「そう・・・。また借りられそう?」

「借りられると思うけど・・・、何するの?」

「サクラ・・・、あんたに“任務”が来てるよ」

「えぇっ!?」



いのが、ポーチから一枚の依頼書を取り出した。

奪うように強引にむしり取ると、慌ててその内容を読んでみる。



「・・・・・・」



本当に、私宛の任務依頼書だ。

任務内容は、やっぱりその手の・・・。



「・・・な、何これ・・・? 本物・・・?」

「残念ながら本物。カカシの奴、どうやってもあんたが“任務”に行くって思ってるみたいだから、もう、本当に行ってやればいいじゃない」

「そ、そんな・・・。当て付けで任務受けろって言うの?」

「当て付けかどうかは、まぁ、あんた次第だけどね・・・。どうする? 受ける? 断る?」



わざと素っ気無い素振りで、私の様子をじっと窺っている。

でも、いのの目付きは、プライドに満ちた真剣な忍のものだった。



断れない・・・。断れるはずがない。

私は里の手足と同じなんだ。任務の選り好みなんて、許されるはずが無い。



「・・・分かった。・・・受ける・・・わ・・・」



まさか本当に、あのドレスを着る破目になるなんて・・・。

皮肉な巡り合わせに思わず苦笑してしまった。



「そう・・・。じゃ、しっかり覚悟を決める事ね。成功を祈ってるわ」

「・・・ありがとう・・・」













それから暫くして、私はカカシ先生の家に向かっていた。



懐かしい道のり。

ふと空を見上げると、遠く西の空に一番星が小さく輝いている。

少し前までは、夕食の食材を手にしながらこの道をウキウキと通っていたのに・・・。

ずいぶん変わっちゃったね・・・。

まさかこんな風になるなんて、思いも寄らなかった・・・。



見慣れた四つ角を曲がって奥に進む。

やがて見えてきた懐かしい家。

ぼんやりと窓に灯りが点っているのが見えた。



あの中に、カカシ先生がいるんだ・・・。



途端にギュッと胸が締め付けられ、ズキンと大きく痛んだ。

いろんな思い出が頭の中を駆け巡りそうになる。急いで記憶を閉じ込める。

固く両目を閉じて、こみ上げてくる涙をなんとか追い払った。



泣いてる暇なんてない。泣いてばかりいたら、決して先には進めない――








震えるほど緊張感が高まる。階段をのぼる足が何だか覚束ない。

でも・・・、このままじゃ何も変わらない。

怖い・・・。怖いよ。でも・・・

頑張れ、サクラ!






ピンポーン ――

祈るような気持ちでドアの前に佇んだ。



お願いだから、逢って、私の話を聞いて・・・。











カチャ・・・ 


かなりの逡巡の後に、小さくドアが開かれた。



「・・・何・・・?」

「・・・あ・・・あの・・・」



すぐそこにカカシ先生がいる。手を伸ばせば届くほど近くに、先生が立っている。

でも・・・。

カカシ先生は、出会った頃のどこか距離感を感じさせる視線で、私を見ていた。

何気無さそうに・・・、でも決して心の内は見せないように・・・。

迂闊に近付く事は許されない――

僅かにしか開かれていないドアの隙間は、まるでカカシ先生の心そのもので、私が快く招き入れられてない事は一目瞭然で。



ズキン・・・



心が痛い。泣き叫びたいほど心が痛い。






「どうかしたか・・・?」

「あ、あのね・・・。私・・・、“任務”に・・・行ってくるね・・・」

「え・・・?」



一瞬だけど鋭く瞠られた色違いの目。

私の放った言葉がどういう意味か瞬時に思考を張り巡らせて、どうやってもある答えに到達してしまって、

強張った表情のまま私の顔を覗き込んでくる。



「いつ・・・?」

「・・・今夜」

「・・・・・・」



ヒュ・・・

小さく息を呑む音が聞こえた。

途端に空気が軋み出す。

無言のまま、私の顔をまざまざと凝視する先生。

視線が鋭い針の雨になって、次から次へと私の心に突き刺さってくる。

声なき叫びが鼓膜を突き破り、頭の中がウワンウワンと混乱する。

見えない両手に首元を絞められる錯覚を覚えて、体中が震え上がった。



怖い・・・。



思わず泣き出しそうになってしまう。

そんな自分を懸命に叱咤して、何とか気丈に振舞った。



「ほら、前にいつ行くのか気にしてくれたことがあったでしょう? だから、カカシ先生にはちゃんと報告しなくちゃって思って・・・」

「・・・・・・」

「・・・ねぇ、応援してくれる? 初めての“任務”が、成功するように・・・」

「・・・そうか・・・。頑張れ・・・よ、サクラ・・・」



強張ったぎこちない微笑みを浮かべる先生に向かって、「それじゃぁ・・・」とたどたどしく答えると、一気にドアの前から駆け出した。



「サクラ!」



バンッ――



勢いよく開かれるドア。外廊下にカカシ先生の声が反響する。

背中に突き刺さる先生の視線が痛い。

振り返りたい・・・。でも――

視線を振り切り、一気に階段を駆け下りた。



タンタンタンタン・・・



戻りたい・・・。またあの場所に戻りたい・・・。

でも・・・、振り返る事は絶対出来ない。私のプライドにかけても。

なんとしてでも、この“任務”は成功させなければいけないから。

そうしなければ、きっと私達、このまま駄目になってしまうかもしれないから。

だから、だから・・・、ごめんね、カカシ先生――



心の中で何度も何度も謝りながら、すっかり暗くなった街並みを、逃げるようにひたすら走り抜けた。